So-net無料ブログ作成
検索選択

赤福本店にて。 [グルメ・呑み喰い処]

P1350031.JPG

先日行った伊勢神宮の参道に、
全国でも有名な和菓子「赤福」の本店がある。

例の騒動があって、しばらく営業を停止していたが、
現在はそんな騒動もなかったかのように、販売再開している。

数年前にも来たことがあるのだが、
とりあえず、伊勢といえば赤福なので、入って一皿注文する。

081027-01.JPG

作りたてが、盆に3個乗ってきて280円。
本店で食す赤福は、臨場感があって旨く感じる。

しかし個人的に、赤福の味そのものは、
私には少し甘すぎる。大体2個で食べ飽きてしまう。
ちょっと、砂糖の割合が多すぎて、上品な甘さとは言い難いのがナンである。

何よりも、売っている場所が多すぎるためか、
今さら赤福といっても、有り難味が感じられない。
決して、嫌いではないのだけど。

081027-03.JPG

赤福よりも、同じ参道の、
このおっちゃんが焼く団子のほうが美味しかった。

081027-04.JPG

なんてことは無い団子なんだけれども、良い色つやだ。
隣の家族連れに撮らせてもらっただけで、一人ではこんなに食べてないけれども。

伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい) [日記・雑感]

081018-01.JPG

祭りは人に笑いを与え、
笑いはまた、人を元気にさせてくれる。

081018-02.JPG

いかなるときも、笑いを忘れるな。
これは、奇しくも当地の真珠王・御木本幸吉の言葉でもあったそうだ。

街なかと違い、祭りの人ごみが不快に感じないのは、
みな笑顔であるからかもしれない。

P1340908.JPG

伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)。
毎年10月中旬、その年の初穂を神々に捧げ、
五穀豊穣を感謝する、1年の中で最も重要な祭りであるという。

境内では一転、厳かな表情で皆、神主の動作を見守る。


P1350077.JPG

お米に感謝した後は、参道の「おはらい町」の酒屋にて御料酒「白鷹」をいただく。
基本的に、この参道の店でしか買えない酒。
蔵元は灘にあり、昔から毎朝、伊勢神宮の神様に供されているものだそうだ。

なみなみと1合の猪口に注がれる、ほの甘い純米吟醸。

長い参道や広い境内を歩き回り、汗をかいた後に飲む、
この冷や酒の味ときたら……う~ん、たまらん!
二見の岩戸の塩も、肴にぴったりだ。


P1350082.JPG

「おばちゃん、そんなに注いだらあふれるよ」
最初のひと口は、みなカウンターにかがんですすり込むのが、ちょっと面白い。

この店では、お伊勢参りの行き帰りに、
参拝客が、こうして酒をすすり込んで行く様子が見られる。

まあ、「お清め」とか、「お祓い」と称して、
祭りや参拝のときに酒を飲むのも、古来から受け継がれてきた、
「酒飲みの言い訳」なのだろうなあ。よきかなよきかな。

秘めたる男女の間柄、篤姫と勝海舟。 [日本史(戦国・幕末など)]

大河ドラマ「篤姫」が佳境に入り、徐々に存在感を発揮しはじめたのが、
北大路欣也が演ずる、麟太郎こと「勝海舟」である。

北大路氏は年齢的にもイメージ的にも、ミスキャストのような気がするので
配役については、「う~ん」と首をかしげてしまうのだが、
それはともかく、この海舟は維新後に幕末のことを新聞記者などによく語ったようで、
当時の様子を伝える貴重な証言を数多く残している。

その中に、勝海舟と、天璋院・篤姫の
ただならぬ関係を示す、おもしろいエピソードがある。

江戸の無血開城とともに大奥を退去した後の篤姫は、
その後も徳川家からの援助を受けて暮らしていたが、
旧幕臣の海舟は、なにかと世話を焼いたらしい。

主な役目は何だったかといえば、デートのお相手だった。

海舟は、「下々の暮らしを見せる」という名目で、
篤姫をよく舟遊びや料亭、吉原の遊郭などに連れていき、
帰りは午前様になることも、しばしばであったという。

未亡人とはいえ、篤姫は当時30代中頃の女ざかり。
23歳のときに夫である将軍・家定が死んで10年もの間、
独り身の寂しさに耐えてきた身。
海舟は無論妻帯者であったが、これまた40半ばの男ざかり。

2人が惹かれあった、
あるいは篤姫が海舟に惹かれたとしても不思議はない。
体の関係があったとしても、ごく自然な成り行きと思える。

大奥ではなにかと対立した和宮とも、海舟の邸宅にて食事を共にするなど、
秘めたる恋も育んで、篤姫は
それなりに平穏に、楽しい余生を過ごしたようである。
そういう視点で、ドラマの彼らを観てみるのも面白いだろう。

さすが、ドラマではこういう部分まではやらないだろうが、
他にも沢山伝わる、篤姫の維新後の逸話からは、 なんとなく等身大の姿が見えてくる。

歴史は調べれば調べるほど面白くなるし、
追求すれば追求するほど分からなくなってくる。

こうした話も研究が進めば、より詳細なことが分かるかもしれないし、
あるいは間違いだった、ということになるかもしれない。

そこがまた、面白さともいえるのだが。

(海舟の口述回想)

「天璋院のお伴で、いろいろ行ったよ。吉原、八百善にも二三度、
 向島の柳屋へも二度かね。…おれも馴染みの芸者屋だの、
 いろいろ持っていたから。腹心の家がないと、困らあな。
 天璋院を”おれの姉”と称して連れ歩いたのだが、
 女だから立小便もできないから、知らぬフリをしてくれる家がないと困るからの」

別れが迫る…14代将軍・家茂と和宮 [日本史(戦国・幕末など)]

今年の大河ドラマ「篤姫」は、なかなか面白い。

演出過剰なまでに挿入されるBGMが、
やや煩いものの、宮崎あおいのチャキチャキ演技も
大分落ち着いてきたし、なんだかんだで毎週観ている。

その放送回数が残すところ10回となり、
物語も「薩長同盟」や「第二次征長戦」を迎えていよいよ佳境。

2004年の「新選組!」のときもそうであったが、心情的に佐幕派の私にとって
この先に起こる悲劇の連続は、見ていて少し辛くなりそうである。

そんな中、おそらく来週あたりに将軍・家茂の寿命が、まもなく尽きる。
篤姫と和宮に見送られて大坂へ出陣した家茂は、
江戸へ帰ることも叶わず、21歳の若さで病死してしまうからだ。

家茂と和宮の結婚生活は、わずか2年でピリオドが打たれた。
夫の死を知ったときの和宮の心中、いかばかりであったろうか…。

ドラマでも家茂と和宮は一緒に写真を撮るなど、
仲の良い様子が描かれているが、一説によれば、
この夫婦は政略結婚ながらも本当に仲睦まじかったという。

それを示す、ひとつのエピソードがある。

明治10年、和宮は療養先の箱根・塔ノ沢温泉で亡くなる(32歳)。
彼女は東京の増上寺にあった徳川家霊廟、家茂のそばに葬られた。
皇女という身分もあり、歴代の正室より格上の扱いである。

霊廟は第2次大戦の空襲で大部分が焼け、
昭和33年に墓所移転の機会を利用して発掘調査がおこなわれた。

(このとき、現・東京プリンスホテルの建設を急ぐため、
 和宮の廟が壊された…という腹ただしい話もあるのだが、また別の折に)

その折、和宮の遺体も掘り起こされたが、
棺からは唯一の副葬品である1枚のガラス板がみつかった。

その板には、直垂をきた若い男が映った写真がはめ込まれていたが、
開棺直後に適切な保存処理をしなかったため、
翌日には写真は消えうせ、ただのガラス板になっていという。

「まったく、何やってんだよ…調査員のバカ」と言いたくなるが、
映っていた男性の正体は、服装と埋葬場所からかんがえて、夫の家茂と見ていいだろう。

現存したはずの家茂唯一の写真が、このために消失してしまい残念でならないが、
100年後の空気に触れ、家茂の面影を
和宮が天上に持ち去ってしまったと考えれば、浪漫のある話といえる。

後世、「政略結婚の被害者」のように言われがちな和宮が、
夫・家茂の写真を抱えて眠っていた--。
こんなエピソードを聞くと救われる思いがするし、
なんとなく温かい気持ちになってはこないだろうか。


…これに似た逸話を、私はもう一つ知っている。
それは、幕末日本から時空をはるかに超えた古代エジプト。

かの有名な少年王・ツタンカーメンと、王妃・アンケセナーメンである。
ツタンカーメンも19歳の若さで王妃を残して亡くなり、王家の谷に葬られた。

それから3000年以上も後の1922年に発見された、
ツタンカーメンの墓からは、様々な副葬品が発見されたが、
彼の棺は、ドライフラワーとなった草花で覆われ、さらに花束も置かれていたという。

墓を発掘した、イギリスの考古学者ハワード・カーターは、
「この花束は、若い王妃が亡き王に、最後にたむけたものだろうか。
 私には、あたりに輝く黄金より、この枯れた草のほうがずっと美しく見えた」と記録している。

誰が手向けたのか、もちろん記録には残っていないので分からない。
しかし、私はカーターの言葉に共感できる。

あまり恋愛ドラマに興味はないが、100年前の日本人と、3000年前のエジプト人…。
昔の人の、人を想う気持ちに共通するものを感じて、
深い感動をおぼえるのは私だけではないと思うが、いかがだろうか。

人間愛は不滅なり。
ドラマでの家茂と和宮の別れ、刮目して見るべし。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。